
第八話
〜タンゴ・ジェノシディオ ballare il tango
genocidio〜
(後編)
第三章 BROTHER SUN AND SISTER MOON 太陽と月に向かいて
情緒も何もあったものではない。機械じみた事務員の声で、ミスティ・サファイアは叩き起こされた。
午前十二時寝入りばなである。ベッドから這い出し、ナイトテーブルの上のパソコンをオンにする。
「いったい、誰なの!?こんな時間に」
画面が明るくなった瞬間に、ミスティはげんなりした。相手の嬉々とした表情が、辛うじて冷静を保っていた脳神経を悪戯に刺激したのだ。即座に「通信拒否」モードに切り替える。警告画面に変わり、溜息一つでベッドに再び潜り込んだ。
が、ものの数秒も経たない内に思い返し、また通信電源を入れた。
「ひどいじゃないか。人の顔見るなり消すなんて」
「夢見が悪くなるわ」
ミスティは、ぶっきらぼうに答えた。
「キミの夢にオレが一度でも?出演料を頂きたいね」
アーチレリー・ブールヴァルドは、膝の上に載せたパソコンを抱えてけらけら、と笑った。
映りの悪いディスプレイの中でしかめっ面をしている美女は、無防備にしどけない姿を曝け出していた。寝起きはまるで、世を拗ねた美少年みたいな顔付きだ。他人の寝姿を見るのは失礼にあたるが、専ら女巡検使の方は羞恥心よりも眠気が勝っているらしい。
厳つい制服姿からは想像し難い、着る物なんてどうでもいいといった感じの薄物である。青いサテン地のスリップは、形の良い臍の上までの丈で、その下はシーツに覆われている。
見てる場合じゃないが、どうしても視線はミスティの誇らしげな胸元と露出した平らな臍の辺りに行ってしまう。ここのところ、半強制的とはいえ、大人しく禁欲生活を余儀なくされているからだろう。不覚にも必要以上に想像力が豊かになってしまう。甘いエジプシャン・ミモザの香りが混じった彼女の体臭まで、芬々と漂ってきそうだ。
スリップの下で自由に動く見事に形の良い乳房は、見る者を挑発しているとしか思えない。
「ところでキミさ、そんなカッコで寝てたら、性欲の抑圧されたオッサン、ジジイ共に襲われたって文句は言えないぜ」
「お生憎さま。ここには誰かさんのような、取り敢えず穴があったらいい、という野蛮な人種はおりませんの」
と、ミスティはすかさず応酬した。育ちの良い女ほど、平気でこういう冗談を言うとみえる。
「野蛮な人種?オレの相方のことかい」
「何処までもお目出度いのね、アナタ」
「お褒めの言葉をありがとう、シニョリーナ」
本気で言っているとしたら、相当な馬鹿である。馬鹿でなければ、多少自虐的趣味があるかも知れない。そうでなければ、無意味な相槌の一種だ。
「なぁに?気持ち悪いわね。もしかしてアナタ、相手に事欠いて、私にテレフォン・セックスの相手でもしろって言うの?」
「ハハ。滅相も無い。そんな畏れ多い事言えるワケがないじゃないか。特務巡検使サマに対して」
「畏れ多くなんかこれっぽっちも思ってないクセに」
語尾が甘ったるいイントネーションに変化した。ミスティは、気怠げに長いブルネットを掻き上げる。青い瞳が妖しい光を点した。ついでにスリップを鎖骨の上まで、たくし上げる。勢い脱いでしまうのかと思いきや、両手で自分の乳房を覆い掴み、揉みしだく。
細いしなやかな指の間から、はみ出す危険な塊。
「うわぉ・・・大胆だなぁ、もう。でも、映りが悪くて何だかなぁ」
「シーツが邪魔なら・・・こう?」
「ううん、オレも脱いじゃおうかな」
「もっと、声を出したほうが良くて?」
「ああ、オレも声を出しちゃおうかな」
「ああん、とても残念なんだけど。・・・これ以上やると自動的にセキュリティが働くからダメよ。ここのパソコンは自主規制型なのよねぇ」
「いやぁ、もう充分です」
アーチは、痛む脇腹と股間を押さえて言った。ミスティは、目に見えない程の早業でスリップの裾を直すと、いつもの平然とした顔付きに戻った。どこまでが芝居なのか、本気なのか線引きが出来ない。これも特務巡検使の訓練の賜物か、それとも単にオレを練習台にしているだけなのか、とアーチは悲しげに訝った。
「おバカさん、おふざけはここまでよ。・・・で、よく、私がここにいるって判ったわね」
「サフィール枢機卿の許可を得ている、とアクセスしたらすんなり入れてくれたぜ」
「いやな男」
ミスティは口に手を当てて、欠伸をした。アーチは腕時計を見る。世界時間でローマを示す時間を確認する。
「こんな宵の口からおネムかい。残念ながら、どうもキミとオレのベッドタイムとは相性が悪いようだ」
「何悠長なこと言ってるの。教皇庁の朝は早いのよ。これでも、大事な任務をひかえている身でね。用件ならさっさと済ませてくれる?」
「大事な任務って、教皇の御守かい?」
「その通りよ。相変わらず、そういう察しだけは素早いのね。同じ御守でも、アナタとは雲泥の差だわ」
ミスティは、無駄話を遮るように画面に掌を置いた。
「あのねえ」
と、アーチは声のトーンを上げて言った。
「今、とっても殺伐とした雰囲気なんだよ。あの、もうちょっと手心を加えてくれたりしないのかなぁ?」
「アナタが殺伐としていようがいまいが、こちらには関係のないこ・・・」
ミスティは掌を離した。そして、ナイトテーブルの端からミネラル・ウォーターのボトルを取ろうとして、はっと目を見張った。
「その傷、どうしたの!?」
電波状態の悪い画面から見るにしても、驚いた。アーチは、さっきからシャツの前をはだけていた。贅肉の無い上腹部に巻かれているのは見紛うことのない包帯だった。些か大仰ではあるが、別段同情を買う為の演出でもないだろう。
「出血大サァビスだっての」
「・・・悪かったわ。何があったの?銃創じゃないのね、その様子だと」
ミスティは、途端にあどけない表情になった。まるで別人のように、柔和な表情に変わった。今にも蕩け出しそうに、唇が窄まる。これと同じ唇が、あの毒サソリのような悪言を吐き出すとは。肌までが上気しているように見えるのは、気のせいか。
「三日もすれば大半治るさ。心配なら今すぐ飛んで来て、熱ーいチューの一つでも・・・」
「アナタは神に見放された男。殺したって、死にやしないわ」
「痛いとこを突いて来るよな。キミの言葉はまるで氷の弾丸だ」
アーチは嘯くように言い、苦笑した。
「おかしな譬えだこと」
「いや。氷の弾丸は痛いが、撃ち込まれてもオレは決して倒れない。オレの心はいつも熱いから」
「もう寝てもいいかしら?」
アーチは、慌てて首を振るった。
「済まないね。で、本題だが―異端審問官のジョー・クリサンスマムを知っているか?」
ミスティは首を傾げた。そして、チンザーノ司祭との会話を思い出した。そうだ、パウダーガン使い《銃王》の名前だ。
「ええ、名前だけならね」
「ジョーの経歴を調べて欲しいんだ。出来れば異端審問所に入る前からの」
「無茶を言わないでよ。ヴァティカン職員の履歴は門外不出なの知ってるでしょうに。それも、よりによって異端審問官。たとえ内部の人間といえども、おいそれと拝見出来ないわよ」
「そこを何とかァ。頼むよ」
アーチは画面の前で頭を下げる。
「それは何のつもり?もしかして、私に伯父貴の七光りを使えっていうの?冗談じゃないわよ、本人に聞きなさいよ」
「聞けないから頼んでんじゃん」
「あら、本人と一緒にいるのね?」
ミスティは訝った。
「どういう事なのよ、説明を乞うわ」
「邪魔臭いな。いや、話せば長いんでね。それに時間の余裕がない」
「尚更ダメよ」
と、ミスティは頑として聞かない。何れが段々どうでもいいか、という気になってくるのだが、お互いに引くところを知らない。敢えて引かないのだ。
「いったい何だって、私がアナタの為に一働きしなきゃならないのよ。それで一杯食わされてるのは、いつも私の方じゃないの。いい加減になさいよ」
徐々に眠気が薄れて頭が冴えてきたらしく、ミスティはべらべらと捲くし立て始めた。
「一杯食わせた覚えなんかないぜ」
「アナタという人間は、そういうタイプなのよ。総て自己中心的というか、外交的に見えて、結局は他人に無関心だわ。他人が被った出来事を、頭の中でしか判断しない。デジタル処理ね。それが証拠に自分は意識していなくても、無意識に他人を利用して傷付けてるんだから」
「キミはオレの言動の所為で、今迄幾度となく傷付いたというのか」
アーチは、溜息混じりに申し訳無さそうに言った。母性本能をくすぐるような上目遣いの目付きに、一瞬ミスティはどきりとしたが、それも束の間。
「・・・なんて反省なんかすると思うてか、このオレ様が。そりゃ、キミみたいな世間知らずのお嬢サマは、さぞかし傷付きやすかろう」
「何ですって」
「世間知らずのお嬢サマ、と言ったんだ。他意はない。本当のことだ。それ以上でも以下でもない」
ミスティは暫く画面を見詰めて黙っていた。
「アナタこそ、全くもってわかってないのね。アナタのそういう所が無神経だと言ってるのよ!」
ブチッ。
ひょっとすると、パソコンを放り投げたのかも知れない。鈍い音がして、通信が途絶えた。何度アクセスしようとしても、「通信不能」の文字が並ぶだけだ。
「まいったなァ」
アーチは独りごちた。何でこうなるのだろう。3500キロメートルの距離を隔てても、女という生き物はつくづく量り難い。だが、これで嫌われただの、バカにされただのと思わないのが、この男のこの男たる所以である。
「本当はオレに惚れてるクセに」
ここまで来ると、自惚れも立派な長所と呼べるかも知れなかった。
『骸は語る術を知らず。されど、骸に代わって月は語らず。月は嘆く術を知らず。されど、月に代わって陽は嘆かず』
ジョー・クリサンスマムは、人生で二度、この詞に出会った。
この詞が銃身に刻まれているのは、《パイソン》の名を冠するリヴォルヴァー・レプリカ二丁のみである。世界でたった二丁の《パイソン》。ブラザーサンとシスタームーン。対になったパウダーガンの、片割れの行方を、ジョーは知らない。
ジョーは銃の手入れを終えた後で、一時軽い眠りに就いた。
一面の星空が森林の上に広がっている。
詞の意味は何だろう。長年思ってきたが、未だによく判らないままだ。
月の明るい夜だった。
ジャスミンの横顔が、小さな街灯に照らされているのを、ジョーは今でもはっきりと思い出せる。透き通った声が、ジョーの耳に甦る。
「『骸は語る術を知らず。されど、骸に代わって月は語らず。月は嘆く術を知らず。されど、月に代わって陽は嘆かず』。図書館の石碑に刻まれているの。作者は不明らしいわ。この詞の意味?何だか恐いわ。人が死んだということ?それも、誰かに殺されたみたい。マザーグースに似ているわ」
ジャスミンは寂しげな笑みを浮かべた。
その翌日だ。
市立図書館が爆破されたのは。
ジョーは大学の帰りに、その騒ぎに出くわした。自転車を路上に放り出し、一目散に建物内部に駆け込もうとした。
その時、既にUP(国際警察)が出張っていて、部外者は総て追い返されていたのだが、ジョーは無視して入り込んだ。煉瓦造りのゲートは粉砕され、芝生は踏み躙られ、その車輪跡を辿っていくと、タンクローリー車が、垂直に図書館の書庫棟に突っ込んでいた。煙はもうもうと燃え上がり、消防車と救急車が並んでいる。
そして、炎は建物全体を包み、異様な化学物質の臭いがする。ジョーは慌てて、口許を覆った。
「何があったんだ?このタンクローリー車は!?」
「一般人は立ち入り禁止だと言った筈だ」
「バカ言え!警察だって生身で入ったらダメだ!異臭がする。あのタンクの中身はPCBかも知れないんだぞ!」
「ピ、PCB!?」
「ポリ塩化ビフェニール。人体に触れるような使用は全面禁止されてる毒物だ」
「げげっ」
ジョーの言葉を聞いた警官は、すっ飛んで行った。
警官が走り回っているのを尻目に、ジョーは司書室へと急いだ。煙を吸い込まないように、顔も目だけを出して歩いた。例え人体に接触することを禁じられていても、PCBは安定性、脂溶性、絶縁性等にすぐれる故、いまだ変圧器やコンデンサーに使われている。日常出くわす毒物でないだけに、馴染みが無いのは当然だ。
ジャスミンは書庫の地階に倒れていた。
発見した時のジョーの絶望感は譬え様も無いものだった。爆破による外傷は少なかったものの、明らかにジャスミンは毒物を含有した空気を多量に吸い込んでいた。
如何程、絶望的かをジョーは他人に説明されるまでも無い。
PCBの類はつまり、悪名名高いダイオキシンの仲間である。ダイオキシンの持つ遅延性致死毒性は、中毒してから一日やそこらでは死に至らないが、数週間苦しみ続けた上で命を奪う。甲状腺機能障害、肝臓障害、心筋障害、これらの中毒症状が一気に押し寄せてきて、死亡するのだ。その毒性は青酸カリの千倍、サリンの二倍ともいわれる。
最早、ジャスミンは口も聞けない状態になっていた。気管を毒ガスでやられていた。
その夜、ジョーはイアン・マッカルパインを訪った。
お互いが顔を見るなり、真っ向からの掴みあい殴りあいになるのは必定だった。だが、ジョーは会わずに済ませられない。一発、いやイアンを殴り殺したところで腹の内が収まる筈も無い。それはわかっていたのだが。
背を向けていたイアン・マッカルパインは、地下室のドアが開いた途端に、ジョーの顔も見ず殴り掛かった。ジョーも同じく、拳を振り上げていた。リーチの長いジョーの右拳が、イアンの左頬に食い込み、イアンの拳はジョーの鳩尾に填った。両者は一旦、無様に倒れ、そして再び起き上がった。無言の対決が始まる。その事を誰もが黙認しているかのように、アジトは静まり返っていた。
イアンの拳はジョーのそれよりも一回り大きく、パンチも重い。身の軽さに関しては、ジョーの方が上回っていたが、殴り合いでは分が悪い。普通なら、まともにパンチを食らわないように、ジョーは避け回ってイアンを疲れさせるべきだ。だが、頭に血が上った若者の思考回路にそんな余裕が入る隙など無かった。
ジョーは闇雲にイアンの懐に飛び込むと、無言で何度も殴り付けた。これで黙っているイアンではない。だが、暫くは殴られっ放しのままだった。
一頻、組み敷いたイアンを殴った後、ジョーはくらくらする頭を抱え、上半身を起こした。
「・・・どうした。もう終わりか?」
「・・・・・・」
ジョーは、返答を忘れた。脳貧血を起こす程に殴り続けていたのだ。いったい、何発イアンの頬にお見舞いしたのだろう。右の拳は、じんじんと血流が外気に伝わるほどに赤くなっている。
「あんた、知っていたのか!?」
「何をだ?」
「知っていてわざと、わざと図書館を襲わせたのか!?」
イアンは答える代わりに冷笑を浮かべた。
「何故、妹がいるのを分っていて・・・!!」
ジョーは再び拳を振り上げ、宙で思い止まった。
「2,3,7,8−TCDD。テトラクロロベンゾジオキシン。PCBどころじゃなかった。最も毒性が強いダイオキシンをあんなところでブチまけるなんて!」
正気の沙汰じゃない、と言おうとしてジョーは喉を詰まらせた。
イアンの左手が、ジョーの喉を掴んでいた。
「ぐ、ぐ・・・!」
「その口いつまでも聞けると思うのか?」
イアンは笑っていなかった。鳶色の瞳の奥にどす黒い雲が横たわっていた。その瞳の色を、ジョーは生きている限り忘れないだろう。
「気違いは、手前ェら共の方だ!どいつもこいつも寄ってたかって・・・口にする言葉は金か女か!?」
「・・・・・・」
「そんなカスみたいな値打ちしかねえモノに命懸けてどうする?女や金は消えて無くなるじゃねえか」
イアンの太い指が気道を圧迫する。ジョーは、ぼんやりと仕掛かった頭で、イアンの吐き出す呪いの詞を聞いているしかなかった。
「挙句の果てに、オレの妹にまで手を出しやあがって!!」
「ご・・・」
ジョーは藻掻いた。だが、指は強く食い込んだまま微動だにしない。真正面にあるのは、鳶色の半狂乱に近い瞳。イアンの額に浮かんだ血管は、今にも張り裂けそうに脈打っていた。
狂っている。幾ら血の繋がらない妹恋しさだといって、無関係の人間を巻き込んで毒物を撒き散らすなど、言語道断だ。
殺したけりゃ、オレだけを殺せ。ジョーは叫ぼうとした。
「お前が!!」
「ごほ・・」
「お前がどうやってジャスミンを唆したんだ!?」
指に力がこもる。
「どうやって、抱いたんだ!?え?」
イアンの表情には、すでに冷静さというものが欠落していた。まるで悪鬼のような皺が頬を隈取り、ジョーの魂を地獄に誘い込んでいる。ジョーは痺れる両腕でイアンの手首を掴んだ。びくともしない。
「フハハハハハハハハハ!」
甲高い笑声が地下室に響く。が、ジョーは諦めなかった。イアンの鳩尾に右膝を突き出した。怯んだところを素早く身体を引き、ようよう悪魔じみた手の恐怖から逃れることが出来た。
しかし、ジョーは数歩後退さったところで、壁に手を突き、よろぼうた。脇腹に刺さったナイフを認めると、ジョーは力任せにそれを引き抜いた。
「うああああッッ」
「・・・ふ、刺しどころを違えたんじゃない」
イアンは噎せ返りながら起き上がった。
「お前は殺さない。生きて苦しめ。この代償は高くつくと思え」
ジョーは腹圧から免れた動脈血に両手を濡らしながら、イアンの声を聞いた。転がるナイフの乾いた金属音。
それきりだ。
裏切り。自己愛。偽善。自己欺瞞。
何と言われようが、ジョーは逃れたかった。最も逃れがたきは、ジャスミンの死。
そして、逃れられないまま一週間を過ごし、二週間を死んだように生きて、ダブリンを出た。
頭が痒い。寝汗を掻いたのか。ジョーは後頭部に手を遣り、抜けた髪の毛を掌に載せた。
「こんなに増えたか・・・」
白髪が三本。目に見えないダイオキシンの恐怖に晒された結果が、こうだ。淡い灰色だった髪は、十数年前の出来事以来、半分近くが白髪に変わってしまった。表面にこそ現れないが、ジョーの肉体は確かに蝕まれている。故に家庭を持つことを絶った。元々、どうでもいいことだったが、神父であれば妻帯していない理由を聞かれる必要も無い。
まして子供など望むべくもない。殆ど百パーセントの確率で奇形児が生まれるのは分っていた。
五十歳まで生きられたら、と思う。どのみち生きていたところで何かを残せる訳でもないが。2,3,7,8−TCDDの悪魔の爪が、全身を這いまわって掻き毟り、惨めな死に様を見せるくらいなら、鉄砲玉に撃たれて死んだ方が本望だ。
「だが、何でオレはこうまでして生きたいんだ?人間ってヤツは業が深い生き物らしいな。あの時、キミと一緒に死んでいれば良かったのかもな、ジャスミン・・・」
ジョーは呟いた。その傍らに広げられた毛布の上には、鑢と散らばった弾丸。ラウンド・ノーズであった筈の弾頭は、何れも皆平たく削られていた。
ジョーは、パソコンを抱えて戻って来た、アーチの姿には気付かなかった。
時と荒廃のかさぶたを照らし出す陽光がない暗がりの中に、その豪壮な邸宅は存在した。
サウザ邸の一段低くなった地階部分には、個人的な祭壇があった。そして、今その祭壇の前に二つの影がある。
小柄でやや痩せ肉の老人と、背の高い女。老人こそがセノビオ・サウザ。脚こそ短いが、しっかりとした腰つきは若者の動作に引けを取らない。丸い顔に大きく開いた耳朶が、小動物を思わせる愛らしさだ。だが、齢八十になんなんとしていた。
そして、女のほうはミスティ・サファイアだった。
セノビオ・サウザは十字の形に掲げていた二本の剣に接吻した。
祭壇の部屋は、さまざまな意味で中世的だった。それこそ、二十三世紀の現在では御伽噺の中にしか出てこないような武具が並んでいる。
石壁に掛けられた掛け台の上の細身の剣は十七世紀の物である、あるいはずらりと並んだハーネスは後期十字軍時代の記念的な甲冑でもある。石弓、手斧。トライデントと呼ばれる三叉槍。
これら総ては、セノビオ・サウザの私物ではない。
名誉聖堂騎士の称号を与えられたこの老人に管理を許された貴重品であった。何しろ、鉄壁の警備で名高いヴァティカンの宝物庫は既に余裕が無いほど満杯である。それでも、密かに領外へ流出しているというのだから、これは内部の者の仕業としか言いようがない。という所以でもってここは、格別をもって貴重な武具を管理しているのである。
セノビオ・サウザは言った。
「甲冑を着けるかね?」
「結構ですわ」
と、ミスティは答えた。その化粧っ気のないぽってりとした唇に、微笑が浮かぶ。
「折角のビロードを台無しにしたくはありませんから」
視線の先には、イタリア製の胸甲があった。名だたる職工の手で加工された美しい赤のビロードは、試合後も傷一つ付いていないことを、かつての剣士は自慢したものだ。
「謙遜は飢えた獅子を殺す、と言うが」
セノビオ・サウザは微笑んだ。
「謙遜ではなく、事実ですわ」
ミスティは、三フィートある長剣を手に取った。十五世紀スペイン製の物である。真鍮の握りが手に心地良い冷たさを齎す。セノビオ・サウザも同じくスペイン製の、これは十六世紀の物を握った。
師匠と弟子は、冷たい半地下の小部屋で向かい合った。
「構えて」
セノビオ・サウザの声が響いた。
次の瞬間、セノビオ・サウザの剣が唸りを生じて、ミスティの首筋へ飛んだ。ブルネットの数十本が舞い落ちる。
二本の剣が音と見えない火花を散らしてぶつかり合う。ミスティは攻撃を受け止めながら、老人の腕に短剣を突き出した。セノビオ・サウザは武器をかわし、その反動でミスティは突き倒されかける。
セノビオ・サウザは猛然とミスティの左肩目掛けて切り掛かり、返す剣で右足を狙った。ミスティは攻めをかわしながら、一転、セノビオ・サウザの目に突きを入れたが、ブロックに阻まれた。
老人の攻めの手は、総て二秒と掛からない。
それを読み切るのは訓練不十分な剣士なら、到底敵わない。初めて剣を握る者なら、最初の一振りで脱兎のごとく逃げ出しているだろう。
「切れのいい動きだ。腕を上げたな」
セノビオ・サウザは言った。息は全く上がっていない。
伊達に黒十字軍にいた訳ではない、とこの剣の師匠は内心感心した。
剣技の四つの防御の門。右高の門は右肩及び頭部半分を守り、左高の門は左肩と頭部残り半分。そして右下の門は右腰、右脚、左下の門は左腰、左脚。屈強な男の手に掛かれば、剣の切先は武道でいう手刀の二倍の速度で繰り出される。そのうえ剣自体の重みが加わる計算をすれば、衝撃は四百ポンドを下らない。
精神面においては、言うまでもない。意識を常に反射運動の高みにまで持っていかねばならない。
セノビオ・サウザが右高の門を突いて来ると、ミスティは剣をずらしてこれをかわし、同時に突っ込んで反撃に転ずる。次に左高の門、左下の門。
足捌きの悪さは、防御の命取りとなる。故に、足の形は常に、長剣でかわせる範囲内で動かす必要があるのだ。
躊躇いは無用。
たとえ形通りの練習とはいえ、剣同士の擦れ合う耳障りな金属音に集中力を殺がれては、話にならない。
セノビオ・サウザはミスティの肩と腰をすれすれに切り、腿に一突きを与える。そして、喉に飛び込んだミスティの短剣をかわした。
「腕よりも、背筋と足の力を利用せよ」
という、老人の言葉を思い出しながら、ミスティはじりじりと師匠を後退させるに至った。
セノビオ・サウザは筋力において、五十代の頃と何ら遜色の無い動きをしていたが、それでも筋肉の張りだけは、年々早まっていくことを自覚せざるを得ない。今も、事実そうである。
そして、ひたすら攻めに出る。重い長剣の衝撃を受け止める思いをすれば、その何倍か自前の剣を振り回すほうが楽であるからだ。
「うぬ」
セノビオ・サウザの剣が唸りと共に真っ直ぐに飛び、ほぼ直角にミスティの胸元を裂いた。分厚い革の制服に、丁度十字の傷が入る。ミスティの返しの一太刀を、セノビオ・サウザは剣の平で受け止め、そのまま右回りに回した。切先は、するりとミスティの顎の側まで滑り、覚えずミスティは柄を離した。さもなくば、切先に手もろとも尖った顎まで裂かれていたところだ。
セノビオ・サウザは空中でミスティの剣を自分の剣で受け止め、放り投げた。
「はっ」
ミスティは、今一度石壁の短剣を引き抜き、振り下ろす。二本の剣を交差させ、柄と柄を捻じり合わせるように重ねた。剣の切先は、ミスティの額の中央部へ直線を描くように、V字型の溝に振り下ろされた。火花が散り、金属音が軋んだ。セノビオ・サウザの長剣は、がっしと押さえられてしまった。
ミスティは剣を耳元から押し戻し、セノビオ・サウザの右腕の下へもぐって突き出した。
ミスティの利き腕が左手でなかったら、確実に剣は老人の背骨まで貫いていただろう。セノビオ・サウザは、石壁に背中を強か打ち付けるだけで、無傷だった。
ミスティは、剣を床に投げ捨てた。汗ばんだ長い髪を掻き上げる。
「師匠もお人が悪いですわ」
セノビオ・サウザは苦笑を押し上げた。薄っすらと額に汗が滲み出している。
「わざと突かせるなんて」
「そうだ。だが、他の人間なら刃で打って来たに違いない。ならば、どうする?」
「とどめをさす・・・殺すまでです」
師匠は深く頷き、ミスティは、その手を取った。セノビオ・サウザは若い愛弟子の柔らかい手に引き揚げられた。その時ミスティの頬は、緩んでいた。
それは、若かりし頃の彼女の母親の姿を思い起こさせた。剣を結んだ刹那は、この娘の中に一欠けらの雑念を感じたが、それも瞬間的なこと。二振り目には、情け容赦ない女剣士の顔付きに変わっていた。雑念の原因は、生理的なものではなく、彼女を取り巻くもっと複雑な環境に由来するものだろうと師匠は見た。
「ヴェルジーネは元気かね?」
「母にはもう三年以上会っていませんわ。今はバルセロナにいます」
ミスティは静かに答えた。老人の茶色い瞳が、ミスティの青い眼を見上げた。
「血は争えんな。キミの強気な剣の構えは、ヴェルジーネに似ている」
ポジターノの入り江は、夕焼けの荘厳な色彩に包まれていた。紫色掛かった光、緑の丘、鴇色の断崖、総てが一幅のパステル画のごとくに視界に収まる。アマルフィへのアウト・ストラーダは灯火が着く頃だ。夕餉の支度が匂って来た。レモン畑に続く小道を駆け上がれば、赤茶けた壁の瀟洒な邸が見える。
ローマの引退者が住んでみたいとされる町。荒廃したディアスポラの何れの土地に比較しても、ここは数世紀前と変わりが無い。いや、変わらないように努めて来たのだ。
沈む夕陽を眺めるには、そこが絶好のポイントであることは、何よりも邸の小僧が知っていた。
そしてまた、そのテラスには夕陽に映えて赤く輝くブルネットの女が座っていた。少年は、女にはにかんだ笑みを見せて、赤いオレンジを差し出した。黙って、少年は背を向けた。こんな鄙びた所に似つかわしくない若い女を、まともに見るには少年は幼過ぎた。いや、女が厳しい黒づくめの制服でなく、リゾートドレスでも身に纏っていたなら、さぞかし絵になるだろう。
「口をきくのが恥ずかしいのかしら」
ミスティ・サファイアは呟いた。
半時ほど前から、テラスに出てパソコンを駆使しているが、どうも上手く端末に入り込めない。ヴァティカンのマザー・コンピュータは不機嫌らしい。なまじ人工知能を使っているだけに、メンテナンスの時間に多くを割かれるようだ。
異端審問所。ミスティの伯父グレナデン・サフィールこそが、異端審問所所長を兼任している。早い話が、伯父貴に言えば何とかなるのだが、とてもそういう気になれなかった。
「ああ、何で私がこんな事をしなくちゃならないの」
と、ぼやきつつ、ミスティは頭を抱えた。自分に言い訳をしてみても、腹の内は収まりそうにもない。
アーチレリー・ブールヴァルドの言った言葉が妙に引っ掛かる。「お嬢サマ」発言ではない。ジョー・クリサンスマムの事だ。何ゆえに、あの一行が異端審問官ジョー・クリサンスマムと行動を共にしているのかは分らない。だが、満更こちらに関係が無いとも言えないのではないだろうか。
とはいうものの、昨晩は腹立ち紛れにああいう切り方をしてしまったので、今さら何だったのかとは聞けない。口が裂けても、太陽が西から昇っても、ヴェネツィアが完全にアドリア海に沈没しても、聞くつもりはない。
再び、ミスティは溜息を吐き、椅子の背凭れに腕を掛けた。
風向きが変わりレモン畑の匂いに混じって、人工的な香りが流れた。
ミスティは咄嗟にテーブルの下に置いた一対の剣を取る。鞘は一払いで茂みまで飛んだ。左手に長剣、右手に短剣。椅子は派手な音を立てて倒れた。
長剣の抜き身が描いた弧の延長線上に、男の姿があった。
男は初夏というのに深緑のロングコートを羽織っていた。ミスティは一振りで、男のコートのボタンを削ぎ落とす。
パラパララッ、と軽い音を立てて飛び散ったボタンの行方を、一瞬ミスティは追った。それが隙を生じて、男は不意にミスティの胸元に飛び込んで来た。男が取り出したのは、旧式のリヴォルヴァーだ。短剣の刃が、銃身に押さえられた。
「ここではパウダーガンを抜いてはならないわ。《銃星》マキシム・デ・リガール」
ミスティは、言った。
「帯剣は許可する。ここはヴァティカンと同じ規則なのよ」
「それは初耳です」
リガールは、そう言いながら、パウダーガンを仕舞わなかった。ミスティが剣を収めるならば、話は別だが。
「よく覚えておくことね」
ミスティは、長剣を引き、切先をリガールの喉元に突き付けた。
リガールのパウダーガンは、《リトル・ドラグーン・インペリアル2121》。
もしくはベビー・ドラグーンと呼ばれた小型拳銃が土台になっている。本来は合衆国の誇った騎兵隊用のドラグーンピストル《竜騎兵拳銃》の後に、十九世紀に発売された同じモデルの小型版である。雷管キャップを埋める先込め式のものであったが、新たに改良を加えてリヴォルヴァー式にした。銃としては、名前のみが残っており、性能は全く本来と別物である。
「アナタが幾ら有能な報道秘書官か知らないけど、武器を取っては私の右には出られない」
長剣が閃いて、リガールのコートの裾を串刺しにした。コートごと、後方へ飛ばされ掛けたリガールは、すんでのところで植え込みに頭から突っ込み掛けた。その長身を支えたのは、小柄で痩せ肉の老人だった。
「師匠」
ミスティは言い、短剣を収めるべく鞘を目で探した。だが、何処にも無い。
リガールは流石に直ぐ体勢を立て直した。そして、老人に一礼をする。
「申し訳ありません、セノビオ・サウザ殿。とんだところを・・・」
ふん、と鼻を鳴らしたのはミスティだった。老人は、皺ぶいた掌を撫でながら、破顔した。
「いや、わしのような年寄りには、若い男女のもつれ合いは刺激的過ぎての」
言われて小汗が噴き出たのは、ミスティの方だった。好戦的な自分の性格を窘められているような気がしたのだ。
リガールは、コートに刺さった長剣を抜くと、紳士的な手付きでミスティに渡した。
「まだ陽は高い」
「ヴァティカン直轄の保養所でパウダーガンを抜いた故の制裁ですわ、師匠」
ミスティはあっさりと言った。セノビオ・サウザは鶴のように細い首を竦めた。
この孫娘ほどの若い愛弟子は、今まで老人が仕込んだ使い手の中でも、最も扱いにくい悍馬の類だ。先程の指南中は全く冷静さを欠くことが無かったというのに、集中力を殺がれる相手だと、まるで暴れ馬だ。
兎に角、そこらの男をものの数秒で蹴散らす腕前は瞠目に値するが、それ以上に血の気が多い。
「いっぺん血抜きをしたらどうかね?ミスティ」
「は?」
「それとも、いい男でもいれば少しは変わるかのう」
セノビオ・サウザはリガールの方を見ながら、小さな声で言った。
ミスティは敢えて聞こえない振りをしていた。
「宿舎に連絡をしたら、ここにお出でだと伺ったもので」
と、リガールはミスティに向かって言った。全く取り乱した様子は無い。冷静な美貌には、先刻の騒ぎもネズミ一匹が出た程度にしかならないと見える。
「わざわざ出向いて頂くとは、緊急の用件でも?」
「今朝ほどこんな物が教皇宛に送り付けられて来ました。当然ながら、送り主は不明です」
リガールの右掌に載せられた小さな再生紙の包みを、ミスティは受け取った。やや、重みを感じられる。包みを開くと、中には二個のラテン十字のバッジと、0200の数字を記した紙切れが入っていた。
「0200は、都市ナンバー。トゥールーズです」
リガールは言った。
「トゥールーズ」
十三世紀南フランス最大の都市トゥールーズ。一二二九年のパリ和約は、フランス王家における当時最大の議題アルビジョア十字軍後の現地領有関係の整理を取り決めたものである。トゥールーズ伯レモン七世は、独立不羈を敢え無く水泡にされ、国王ルイ九世との和議に調印し、そして異端の摘発と処断に努力を惜しまない旨誓った。同年、十一月枢機卿ロマン・ド・サンタンジュはトゥールーズに教会会議を召集し、パリ和約の実施細目を確定させた。
これが世に言う「トゥールーズ教会会議」である。
「第十条にこうあります。『さらに定める。自発の意志にもとづいて邪説を捨て、みずから過誤を認めてカトリックの教会に帰参する者は、同人の居住せる町に異端の疑いある場合、もとの地に居住させてはならない。何ら異端の疑いなきカトリックの町に置く。また、旧事の過誤に対する嫌悪の標識として衣服の上に』・・・」
「『衣服の色とは異なる色の判然たる十字を二つ。一つは左、一つは右の胸につけさせる』」
ミスティは、リガールの言葉を継いで言った。
「所謂、異端審問制度のはしりですが、何の意味があるか心当たりはありませんか?」
リガールの緑の瞳が、ミスティの顔を見詰めた。
「教皇ではなく、異端審問所を狙っているということかしら」
「そう考えられます」
ミスティは首を傾げた。
ジョー・クリサンスマムの名前が頭に浮かぶ。だが、黙っていた。
「心当たりはないわ。伯父貴に聞いた方がよくてよ」
「キミの方から連絡をくれるとは、甚だ珍しい」
グレナデン・サフィール枢機卿は、事務机に向かって微笑んだ。虚飾に彩られた微笑ではない。
「御機嫌麗しいご様子で何よりです、モンシニョール」
中低音の声が答える。画面の中のアーチレリー・ブールヴァルドは、本人を目の前にするよりもずっと畏まって枢機卿の目に映った。相変わらず、きらきらしい美男子振りだ。彼の父親と同じ鼻筋をしていても、数段男前が違う。
「で、どうだね?」
「さっぱりです。ディアマントスでもホンコンでも、シルヴァー・ブレットらしき人物の噂は耳にしましたが、さて尻尾どころか影も掴めませんね。そのうえ、ジンときたら・・・いや、それはさて置き」
アーチは取り澄まして、片方の眉を上げた。ジンが刃物キチガイのテロリストに捕らわれているなどと知れたら、お小言頂戴するだけで済むかどうか。いつぞやの、ミスティの台詞が頭に浮かんだ。
『お守役としては無能ね』
この男にしては珍しく、引っ掛かる言葉として、頭の片隅に残っているらしい。
「それも勿論だが、私が聞いているのは、そうじゃなくて」
「御心配無く。取り敢えずは、薄給ながら食っていってます」
「給料上げろと言うのか?ま、考慮しておこうか。私の管轄じゃあないんだが・・・。いやいや、そうじゃなくて」
「ああ、医局長のヒステリー、治りました?相変わらず枢機卿の面々とは仲が宜しくないようで」
「先日の一件・・・《PE》の件以来ますますだ。頓に口もきいてくれない。いや、それもともかく、キミどんな具合かね?」
理知的なサフィール卿の目が丸くなった。アーチは暫く見詰め返した後で、敢えて視線を逸らせた。枢機卿が言わんとする事は、とうに判っていたが、答えようがなくて適当に茶を濁すしかない。ここは、愛想笑いだ。
「オレの口からは・・・何とも言えませんねぇ」
「うむ」
サフィール卿は唸ったきり、その話題についてこれ以上触れる必要はない、と判断した。
「話は変わりますが、異端審問官ジョー・クリサンスマムが今遂行している任務に関して、お答え頂けますか?」
「ああ」
あまりに唐突な、だが如才ない口振りに、サフィール枢機卿は、ごく自然な受け答えをしてしまった。
「テロリストBBWの追跡だろう?半年前の北京事件以来、まとまった報告は上がっておらんが。それがどうかしたのか?」
アーチは、サフィール卿の顔を見て片頬に苦笑を押し上げた。確認するまでも無かったようである。それは、ミスティ・サファイアが教皇庁に呼び戻された時点で判っていた。
ファビオ・キアラモンティ大司教の葬儀には、教皇シクトゥス13世が現れる。その教皇の命を狙っている輩にとっては、願ったり叶ったりの大舞台だ。たとい失敗に終わったとしても。
そして、敵は必ずしも外部にいるとは限らない。
アーチレリー・ブールヴァルドは、今度の儀式及びテロリズムの予測に関して全くの外野である。とはいえ、第三者であればこそ、読める事がある。だからこそ、ここは枢機卿に対して一つ芝居を打って置く必要があった。
「正直にお話しましょう」
と、アーチは勿体ぶって言った。
「今、ジョーと行動を共にしています。いえ、偶然なんですがね。昨晩BBWのボスとやり合ったところで」
「BBWと?」
サフィール卿の顔に険が差した。
「それが、どうも妙でして。BBWは百人からいる組織ですが、どうも傭兵ばかりでテロリストの姿が見えないんです。何処かに潜伏しようにも、このアジアの山奥じゃ、無理があるといえばありますしね。で、考えたんですが」
「ローマに潜んでいるとでもいうのかね?」
「よくある撹乱的手段でしょう。問題は、連中の狙いが何処にあるかということですが・・・」
アーチは腕組みをした。サフィール卿は、頷いた。
「それなら、つい今朝ほど丁重な手紙を頂いたよ。トゥールーズ教会会議と十字を示すメッセージでな」
「異端審問所に対する挑戦状とみなしていいわけですね」
目から鼻へ抜けるとはこういう対応を言うらしい、とサフィール枢機卿は感心した。
だが悲しい哉、科学者にしてはこういう頭の回転の良さは、逆にマイナスでしかない。芝居っ気のある口調といい、むしろ政治家向きの才能だ。何処まで本気なのかどうか、誰にも量ることが出来ない。その点、マキシム・デ・リガールはやはり不適格だった、と改めて知る。良くも悪くも、あのスラブ人は真面目過ぎるのだ。
「オレみたいな若輩者が言うまでもないことですが、本当の敵は外部の人間とは限らない。何しろ、ゼノホビアのテロリストが一体、それだけで今の世の中どうやって食っていかれますか?スポンサー無しで傭兵を雇うなんて出来っこない。何がしか、お互いに利益を齎す取り引きを、誰かと交わしているに相違無いでしょうね」
「キミは、ヴァティカン内部に連中を雇った者がいる、と言いたいのか?」
サフィール枢機卿は、訊き返した。アーチは、少しも動じない。新米の執行官ならびびってしまう枢機卿の鋭い眼光にさえ、眉一つ動かすことはしない。度胸と厚かましさだけならこの男、老獪な枢機卿連中をはるかに凌ぐだろう。
沈黙が枢機卿の方に焦慮を齎し始めた。
その頃合を見計らったように、アーチは唇を開いた。
「・・・少なくとも、異端審問所所長である卿に敵意をお持ちか、利害関係のある人物が。お心当たりでもおありですか?」
アーチは飽く迄、冷めた目付きでディスプレイを見詰める。昼間は電波状態が特に悪い。画面は、目の粗いサンドペーパーのように見えた。
「心当たりが多過ぎてな」
「お気の毒です」
これでいい。アーチは用件が終わると、さっさと通信を切った。
これで、女巡検使ミスティ・サファイアは今後起こり得るだろう儀式での事件に、直接関与しない裏付けを作ったつもりである。たといミスティが真の首謀者を殺害しようが、それは彼女の意思ではない。少なくとも総ては彼女の伯父貴が差配しているという証言を、アーチ自ら演じ切ることが出来るのだ。
最悪の場合を想定しても。
「ホンコンでの借りを返すぜ、ミスティ」
アーチは胸中で呟いた。
「そうさ。仮にキミのおじさまが連中を雇った人物だとしても、キミには伯父貴を殺せまい。おじさまでない他の誰かを殺したとしても、おじさまはキミを擁護してくれる。・・・いや、万が一、おじさまを殺害したとしても、術中に嵌ることに変わりは無いだろう。むしろ最悪だ。何れにしても、キミはまだまだサフィール卿の掌の上で転がされているだけなのだという事実を知っている第三者が、一人くらいは必要だろう?」
剣呑な考えを巡らせているにしては、些か不謹慎な笑みがふと、アーチの片頬に浮かぶ。
「いや、一人とは限らないか」
癪に障るが、マキシム・デ・リガールもあれで同じ事を考えているに違いない。だが、事情に明るい人間が多いに越したことはないだろう。
振り返った時、ジョーが毛布の上から起き上がるのが見えた。アーチは《キングコブラ》の雷管に、真新しいフルメタル・ジャケットの弾丸を込めた。火薬を多めに調合した、人殺しの為の最高の小道具。
鼓膜を劈くようなギャリギャリ、というブレーキ音と、猛烈に環境を悪くさせる2サイクルエンジンの排気ガス。その白煙がもうもうと臭ってきた。オイルの焦げる臭い。
「げほ、たまらん臭いだ。もっとおとなしく走れよ!」
タンデムシートから叫ぶジョーの訴えを無視して、アーチはスロットルを開ける。わざと乱暴な運転をしてみせるのも楽じゃない。
「乗せて貰ってるだけで有り難いと思え、白髪アタマのヘタレ神父が!」
「何か言ったか?」
「おお!絶好おおのツーリング日和だぜ!」
《デアデヴィルXIX》は、爆音を上げて峠を下る。両脇に緑の波が押し寄せてくる。そして、後ろに繋いだ《イケヅキCR−X》を振り返ったジョーは、眩暈を覚えた。狭い凸凹道で、体ががくんがくん揺れる。小枝は衣服の上から突き刺さるわ、蔦は絡まるわ。後ろ向きでいたら、嘔吐は必至だ。
タンデムしている人間でさえ、この重力だというのに、深手を負っている人間のライディングとは思えない無茶な走りだ。
「こいつ、ホントに殺しても死なない強化人間だった・・・」
「何くたばってやがんだ、ジョー!こんなトコでゲロ吐くんじゃないぜ!」
アーチは叫んだ。
前方に見えてきたのは、ジープの群れの最後尾だった。
「さあて、お手並み拝見だ。スロッピー・ジョー」
「おう」
《パイソン・ブラザーサン》のトリガーを引く。毒蛇が獲物を狙って鎌首を擡げるように、ハンマーの首がぐっと持ち上がった。ノッチ音は一回のみ。
ハンマーは落ちてサイトの向こうに白い閃光が流れる。一発目でジープの左後輪が傾いた。矢庭に原則を余儀なくされたジープは、安定性を失いかけていた。
着地の安定感が無い分、パウダーガンの命中率は下がる。しかも、衝撃は幾分増す。だが、ジョーは微塵も揺れ動かず、二発目に入った。二発目はジープのどてっぱら。ガスタンクに見事命中。ジープは黄色い植物性ガスを垂れ流しながら、減速していった。
「さよーならあ」
ガタピシ音を立てていくジープを尻目に、ジョーは余裕のウインク。
火傷しそうに熱い銃身は、まだ踊る。三発目が次のジープを狙った。が、予想だにしない反撃がジョーとアーチを待ち構えていた。
「うわわわわわ!」
ぐっしゃ。
ジープの助手席に座っていた男が投げた物は、鶏卵だった。あらかた、先日襲った村で掠め取って来たものだろう。
「またプリプリとした濃い黄身じゃねえか、この」
ジョーの耳元に黄身がべったりと貼り付き、僧帽のつばからだらりと透明な白身が垂れ下がった。ジョーは、唇に貼り付いた卵の殻をぺっぺ、と吐き出した。
「頭の上に落とすな!・・・がっ!」
アーチは逆上して叫んだ。その横っ面に、鶏卵が命中する。
「ゲラゲラゲラ」
ジョーは大笑いだ。
「いや、笑ってる場合じゃねえ!」
四発目こそは、真横に並んだジープのフロントガラスを撃ち抜いた。ハンドルがもげる。
アーチは、むかむかしながら生卵を拭い去り、ハンカチーフを捨てた。目の前に手を振る少女の浅黒い顔が見えた。
「おーい!」
ピーチィ・フィズは縛めを免れていた。ジープの後部座席から、荷台に移ろうとしている。まるで迷った子犬が飼主を見つけて、千切れんばかりに尻尾を振っているかのような様子だ。
「あ、あのアホでかい声出しやがって!」
思わず減速して、Uターンしたい気分に駆られたが、行き掛かり上アーチはスロットルを全開にしたまま、神妙な顔で坂道を突っ込んで行った。時速百キロは下らない。
「ここで引けるか!」
「おいおいおいおいおいー!何やらかそうってんだ。ぶつかるじゃねえかあ!」
ジョーは必死で僧帽を押さえた。が、アーチは聞く耳持たない。成る程、仕方ないと腹を括ったジョーは、えいやと中年の肉体に鞭打って、タンデムシートの上に立ち上がった。
アーチの肩に左手を置き、身体を支えつつ、狙いを定める。《デアデヴィルXIX》が、すんでのところでジープのテールランプを掠り掛けた。今だ、とばかりにジョーはジープに飛び渡った。《パイソン・ブラザーサン》の銃口は、ピーチィの傍らにいるひ弱な男の方を向いていた。運転手は、頻りにバックミラーを覗きながら、ジョーを警戒している。
前方のジープが異変に気付き、助手席側にいる男が武器を構えた。
大型のマシンガン・ブラスターである。昨晩お見舞いされたものだが、こんな状況でぶっ放されたらジョーは一溜まりもない。いや、ジョーだけではなくジープの運転手も同乗者も諸共だ。
「よ、よせっ。それだけはよせって!」
ジョーは《パイソン》を構えながら、左手を突き出した。ジェスチュアで制止を示してみるが、男は無視してトリガーを引いた。
発射音と共に、ジョーはジープの助手席に転がり込んだ。運転手は、慌ててハンドルを切る。だが、下り坂で加速が付いているうえ、空気抵抗があるものだから、ハンドルはブレた。サイドミラーが脇の常緑樹に当たり、ジープは半回転した。
同時に、振り落とされ掛けたピーチィの首根っこを、併走していたアーチの右腕が引き上げた。
「ひ、人殺しぃー!」
叫ぶピーチィは、そのままアーチの胸元に抱えられた。
「いやん」
「大人しくしがみ付いてろ」
言われなくても、少女はガスタンクの上に跨ると真向かいになり、木登りサルみたいにアーチの腰に抱き付いた。ここぞとばかりに、だ。
「いででで」
「あ、堪忍なぁ。包帯?酷い怪我やん!これって、もしかして・・・」
ウチの為に、と言い掛けたピーチィの頭を、アーチは思いっきり押さえ付けた。
「じっとしとけっての。そんなにオレと心中したいか?」
「うん」
少女は柄にもなく、頬を赤らめた。アーチは、少女のか細い声など聞いちゃいない。
ジャカッ。シリンダーが回り、《デアデヴィルXIX》は速度を弛めることなく、後尾のジープを追い越した。マシンガン・ブラスターに狙いが定まる。まるで黒馬を駆るカウボーイのように、腰を浮かせて右腕を伸ばす。
狙いは定かだ。《キングコブラ》の放つ重低音が、重数キログラムは下らない鉄の塊を一瞬にして屑同様に変えた。マシンガン・ブラスターは既に男の手を離れて、林の奥に消え去った。同時に上がる男の絶叫。右手首を貫いた穴から、黒味を帯びた血が噴出している。
ジョーは、硝煙の流れる方向へ顔を向けた。
「まったく、《称号》なしにしては、イイ腕だ」
俄仕込みの相棒に感心している間もなく、ジョーは助手席から這い上がり、右手に握り締めた《パイソン・ブラザーサン》のハンマーを落とした。そして、左手を僧服の懐に突っ込む。取り出したのはセミ・オートマチックのルガーPPK・リヴァイバルだ。こちらは、専らセコンド・ガンとして滅多に使用しないのだが、数年ぶりに弾を装填する事態となってしまった。
運転手は隙あらば、ジョーの太腿にでも食らいついてやりたいところだったが、ハンドルから片手を離した瞬間に、頭はスイカ割りのスイカのごとくマグナム弾に粉砕される運命にある。
そして、ジョーはルガーPPKのセフティを外し、発砲した。
ガシャガシャ。
前方のジープのフロントガラスが砕け散った。ルガーの弾き出した弾ではない。明らかにフルメタル・ジャケットの357弾の発射音だった。カノンのようにして、二十二口径弾の連続音が重低音を追った。それを更に追う銃声。
ガラスと共に血飛沫が上がる。ジョーの顔に、生臭い飛沫が掛かった。ほんの僅かだが、ジョーは目を瞬く。ジープが不意に安定感を失った。運転手の左手が、旧式のサイドブレーキの脇に伸びたのだ。
「うっがっ!」
ジョーは既に、《パイソン》を二発発砲していた。その時間は僅かに0コンマ62秒。運転手の両腕は一瞬にして、使い物にならなくなった。
フラット・ノーズに加工された357弾は、運転手の二の腕に填ったまま、まるで肉食魚のように離れない。そして、骨は粉砕されていた。ジープが不自然な失速をする間際、ジョーは前にジャンプした。辛うじて、荷台にしがみ付き、攀じ登る。
僧帽が後方に流れ飛んだ。
「ジョー!」
ピーチィが叫んだ。ジョーはウインク一つを少女にお返しして、ルガーのグリップを素早く直す。
続けざまに三発。後部座席の男二人の肩に仲良く一発ずつ、そして助手席の男がブラスターを抜きかけたところで、左腕に一発。お見事としかいいようのないタイミングで発砲。
「どきやがれ!」
ジョーは運転席の男の後頭部に《パイソン》の銃口を押し当てた。
「シートに失禁したら承知しねえぞお」
そう言いながら、ジョーはルガーを左手中指に引っ掛けたまま、男の襟首を掴むという芸当で、男を運転席から放り出した。無論、男は自ら進んでドアを開けたのだ。頭を撃ち抜かれるよりは、マシだ。
「あーれー」
時速百キロは下らないジープから身を投げた男の絶叫は、林の中へ吸い込まれていった。ジョーは助手席と後部座席の男達を摘み出し、運転席に陣取る。
ボンネットの向こうに見えたのは、灰色のコートの襟元。振り返った男の顔には、凄惨な笑いが浮かんでいた。
「舞台は整ったな。スロッピー・ジョー」
赤ら顔のグラッド・アイが言った。尤も、その呟きがジョーの耳に届いているのかどうかは判らない。
ジョーは大きく呼気を弾ませた。
第四章 DEAD OR ALIVE 生死を問わず
壮大なイル・クッポローネ。今朝はまた、雲一つ無い晴天にその気高い姿を現している。ローマ市内に集まった人々の群れは、既に朝まだきから動き始めており、午前七時半の今もまだサン・ピエトロ広場に流れ込んでいる。ティベル川の流れのようにゆったりと。
平和の象徴は、総て広場から建築物の屋根屋根に追い払われてしまった。
衛兵はブロンズ扉の向こうに控えていた。
一般の司祭・司教は、それぞれ指定された区画に整列していた。総勢五千人余の一般聖職者は、特別な理由でもない限りはめいめい参列の義務があった。彼等が黄金率の3対4の長方形に並んでいるその前方、つまりよりイル・クッポローネに近い側に各司教区長が並ぶ。そのまた前方に南面して横一列に並んでいるのが、グルッポ・カルディナーレ(枢機卿会)の面々とヴァティカン各庁の首長だった。
聖職者でない者は、司祭らの後方に陣取っている。
オベリスクの上に白い鳩が舞っているのを、カッサンドラ・ブルーネレスキは視線で追った。
ヴァティカン科学アカデミーの若き女医局長は、今日はさすがに無粋な白衣姿ではない。漆黒のスーツは紛いなくイタリアン・ブランドだ。ウエストを絞った短いジャケットに、マキシのスカート。一切の装飾品が無いという点に目を瞑れば、ある意味スタイリッシュに着こなされている。
目立つ赤い髪はきつく結い上げられていた。
その視線は、最初退屈げに枢機卿らの雁首を左から順に動いた。
ローマ司教総代理アルフレード・ティレリ教皇代理枢機卿。本来は教皇が治めるローマ司教区の代理を行っている、枢機卿会最長老。カッサンドラがまともに拝顔したのは、何年ぶりだろう。薄い青の瞳をした、神経質そうな顔付きの典型的な北イタリア人だ。
その右に枢機卿ロドリゴ・サン・トゥルメ国防省長官、ジアチント・バルベリーニ財産管理局長。枢機卿ジョナサン・フュリエリ聖務省長官の席は空いている。葬儀の最高責任者は、棺に並んで出てくるのだ。
「少なくとも儀式が終わるまでは、解熱剤がいうことをきいてくれるといいのだけれど」
カッサンドラは一抹の危惧を覚えた。
昨夕、ジョナサン・フュリエリ枢機卿はひどい咳と呼吸困難を訴えて医局に担ぎ込まれた。
診断結果は軽い肺炎だった。むくみもあり、肺に僅かな水が溜まっている様子があった。軽いとはいえ、腎機能に低下が見られた。その低下が招いたむくみが、結果的に肺を苦しめたのだが、本来は起き上がって動き回るような病状ではない。安静にして貰わなければ、というカッサンドラの諌言を振り切っての執務だ。
儀式が終われば医局に直行。緊急処置の出来る体制を持しての、医局員の出席だ。
そして、枢機卿マッフェオ・キアラモンティ科学省長官。カッサンドラの直属の上司に当たる人物だ。ファミリーネームから瞭然としているが、死者の遠縁にあたる。つまりは教皇とも血筋が繋がる。とはいえ、本来ヴァティカン内の政治的人間関係において、この男は最も意欲的ではない。名前だけは枢機卿だが、カッサンドラに言わせれば、研究者肌、学問バカの部類だ。
次に枢機卿ヤン・フランツァ・ドブチェク法務省長官。
最後に枢機卿グレナデン・サフィール異端審問所所長。いつもと変わらぬ冷静な顔付き。
「何が嬉しくて、こんな天気の良い日に朝っぱらからタヌキオヤジ共の顔ばかり見なくてはならないのかしらね・・・」
四十女の溜息を聞く者はいない。
並居る聖職者に混じって、執行官が立っている様を、カッサンドラは見遣った。
中でも、見るともなしに目に付くのは、厳しい制服姿の女巡検使ミスティ・サファイアだ。屈強な男達に混じっても遜色の無い長身だが、やはり造りはかなり華奢に見える。
「あら、戻っていたのね。あのお嬢ちゃん」
思わず声が出た。そして、ほんの一瞬お互いの目と目が合ったような気がした。
カッサンドラは仄かな笑みを艶然と浮かべ、ミスティの方はやや侮蔑をこめたような雰囲気で目を細めた。
「あんな若い娘が、いずれ緋色の法衣を纏うのかしらね」
そんな女を捨てるような真似はしたくないものだ、とカッサンドラは少し気の毒に思った。がちがちの秀才肌ならともかく、あの《ヴァティカンの頭脳》といわれるグレナデン・サフィール枢機卿の姪にしては、些か毛色が違うような気がするからだ。
オベリスクの頂上にある十字架に、灰色の鳩が止まった。
ミスティは、鳩の動きに目を遣った。今朝はいつもに比べて数が少ない。儀式の御蔭で鳩は殆ど他所に追い遣られているのだ。彼女が知る限りは、毎朝、このサン・ピエトロ広場に数名の老人がやって来て、パン屑を撒いている。午前七時から八時の間にだ。それは、もうかなり前、ミスティがまだ修道院に預けられる前からの慣習だった筈だ。
今日はさすがに老人達も現れまい。いや、弔問に訪れるやも知れない。
ファンファーレが響いた。
午前七時五十分。
その盛大な音に驚いて、鳩が飛び立つ。
いよいよ教皇シクトゥス13世が登場するのだ。ミスティは自分の位置関係を確認した。教皇がブロンズの扉から現れ、緋色の絨毯の上を自ら歩いて祭壇に進むことは、進行の上で知らされていた。勿論、一般聖職者は露も知らない。何処から洩れるとも限らないからだ。
衛兵が先駆けを務める。いつもの鮮やかな制服ではなく、弔意を示した黒い制服姿のがっしりした美丈夫達が、整然と歩き出した。
一般弔問の信者達が息を飲む音が、伝わる。
そうして、教皇の姿は数年ぶりに白日の下に現れた。覚えず、一同の感嘆の声が洩れ聞こえる。この場面だけを切り取って見てみたならば、誰も荘厳な葬儀の場面とは思わないだろう。教皇の行幸のように、皆は明るい顔、或いは驚きの表情で進行を見守っていた。
教皇の顔色は、さほど悪くも無く良くも無い。ミスティは数年前と比較して、やややつれた感じを否めなかった。だが、柔和な印象はそのままである。青年教皇と呼ぶに相応しい雰囲気であることには変わりない。そして、その瞳は信者、或いは聖職者に迎合したり自信の無い目ではなく、ただ真っ直ぐに祭壇に向けられていた。
ゆったりとした足取りで緋の絨毯の上を、流れるように進む教皇。
わざわざ振り返って見る者はいない。だが、誰もが横目でしっかりと教皇の姿を追う。秀でた鼻梁。やや落ち窪んだ灰色の瞳は思慮深さを表している。ガラスのように繊細な頬。尖った顎。聖杖を携えたしなやかな手指の動き。華奢な身体を包む、純白の法衣。
あまりにも慈愛に満ちた眼差し。どれをとっても非の打ち所が無い。意地の悪い人間なら、何処からか隠れた才能を持つ若い男優を雇って、教皇を演じさせているのでないかと思うほどだ。
ミスティは微かに違和感を感じた。
シクトゥス13世の姿にではない。
広場に漂い始めた密かな悪意。ミスティの青い瞳が泳いだ。
広場を取り囲む肌色の壁。青空に僅かに刷いた白い雲。オベリスクの頂上に一羽の鳩。何がどう、という訳ではないが、気味の悪いくらいに揃った舞台。
道は緩やかに平地に向かっていた。ジョー・クリサンスマムの操るジープは、前方のジープに微かに触れた。ほんの僅かな接触とはいえ、速度が速度であるので、かかる重力も半端ではない。グラッド・アイは後方を見た。荷台に乗った傭兵がブラスターを構える。
赤い熱線は、ジョーの左肩を掠めて散った。まことに狙いが悪い。だが、無理からぬ事だ。
ジョーの《パイソン》は、既に二度目の装填でこめた弾丸を使い切っていた。
敵が体勢を定めている間に、ジョーは素早くエンプティ・カートリッジを落とし、処女弾を詰め込む。
フラット・ノーズの弾丸は、今詰め込んだ六発しか残っていない。後はいつものラウンド・ノーズのみだ。
アーチの脇腹にしがみ付いていたピーチィが、もぞもぞと動き出す。
「何だよ、くすぐったい。よせって、そこは。コドモが触るんじゃない」
「違うねん、アホ。ジープの荷台!」
ピーチィに言われて、アーチは荷台に無造作に乗っかっている麻袋を見た。麻袋は、芋虫みたいにもぞもぞと奇妙な動きをする。
「まさか、あれ・・・」
アーチは舌を出した。間抜けな相棒が、麻袋と格闘している姿など、見るに耐えない。
ピーチィは、白い歯を見せてにんまりと笑う。
「じゃん」
少女のか細い手に握られていたのは、ジンの《ブラックホーク・ディオファイア》だった。
「何でお前が持ってんだ?」
「そりゃあもう。ウチを何やと思うてるのん?盗賊の首領やで」
義賊だと言っていたんじゃないのか、とアーチは思ったが、この際細かいことなどどうでもいい。実を言うと、没収されていたパウダーガンを盗み出したのは、ピーチィの話し相手をしていた海賊好きのひ弱な男だ。少女の口車に乗せられて約束を果たしたものの、本人は先程ジープから振り落とされて何処へやら。
アーチは《キングコブラ・バニッシュメント》を構えた。
動態視力が命の、この作業は果たして上手くいった。麻袋の紐は危うい軌跡を描いて断ち切られ、中から乱れ切った長髪のジン・スティンガーが顔を出した。
「ちくしょう、殺す気か手前ェ!」
ジンは麻袋を脱ぎ捨てた。ブーツの底を指差して罵る。靴の先に穴が開いている。かろうじて足指は避けているものの、衝撃でじんじんする。
「助けて貰って何を抜かす!礼の一言くらい言え」
「お前の仕事だろーが!」
「自分がドジを踏んでおいてよく言えるな。それでよくシルヴァー・ブレットを撃つだの何だのと・・・!」
「あー、二言目にはそれかい!いい加減聞き飽きた!」
ジンはあかんべえをして見せる。アーチはさすがにカチンと来た。今度は無言で《キングコブラ》のハンマーを落とし、ジープに向かって発砲する。357マグナム弾は、跳ねることなく、金属音を揉み消して荷台に埋まった。積まれていた麻袋が破け、大豆の粒が黄金の滝のごとく流れる。
「ななな、何しやがる手前ェええ!!」
ジンは側にあった自前のテンガロン・ハットを拾い上げ、うつ伏せになりながら吼えた。
「やかましい。テロリスト征伐だ。流れ弾に当たりたきゃ、お好きにどーぞ!」
アーチは無慈悲な笑みを浮かべて、立て続けにトリガーを引いた。ジープは走り続けるが、穴ぼこだらけ。ジンは器用に転がりながら、後部座席に割り込んだ。
「手前ェらいい加減にしやがれぃ!」
叫んだのは、後方のジープを操るジョーだ。
「・・・ったく、血の気の多いヤツらだな」
ジョーはダンヒルを咥えながら、《パイソン・ブラザーサン》のフロント・サイトを定める。《デアデヴィルXIX》をちら、と見遣り、ほんの瞬間唇の端を歪めた。《パイソン》とルガー二丁の、貴重なリロード時間を作ってくれた賢い男に感謝せねばならない。
胸の上で十字を切ると、ジョーは右手人差指に力を込めた。
フラット・ノーズの357マグナム弾は、グラッド・アイの右肩を目掛けて飛んだ。だが、弾は届かない。
グアン。という鈍い音と共に弾き返された弾頭の平たい粒は、隣の運転手にめり込んだ。
声にならない運転手の悲鳴が、ブレーキ音に混じる。
「ウソだろ、おい!」
声を合わせて上げたのは、ジンとアーチだった。
スロッピー・ジョーのファスト・ドロウに勝る早業で、ククリを抜いたグラッド・アイ。しかも刃零れすら許さない。グラッド・アイの鳶色の眼に余裕の色が浮かんだ。
「人間業とは思えねえ」
ジンはジープに這い蹲ったまま、グラッド・アイの方を振り返った。緩く波打った長髪が、風に流れ、凄惨な笑みは地獄の使者を思わせる。グラッド・アイは交差させた両手を開いた。二枚の刃が躍り、運転手の腕の肉を削ぎ落とした。
「うぎゃああああ!」
頚動脈を断ち切られた運転手は、血飛沫を上げながら首を振り、ハンドルにうつ伏せた。コントロールを失ったジープは、急激に失速しながら尻振り回転する。
グラッド・アイは、助手席に立ち上がった。血糊のべっとり付着した刃を、長い舌で舐め上げる。
ピーチィは、その光景に眩暈を覚えた。仁王立ちになったグラッド・アイは、まるで破壊と殺戮の権化と化していた。血煙に包まれた屈強な肉体を弾ませ、グラッド・アイは跳躍した。
前方のジープが横転して、既に息絶えた運転手を吐き出し、燃え上がった。ジョーは、ボンネットにしがみ付いたグラッド・アイに対峙していた。
「よう。久しぶりだな」
グラッド・アイは己の巨体を軽々と持ち上げ、ジョーの眼間にククリの刃先を向けた。同時に、ジョーはグラッド・アイの胸の中心に《パイソン・ブラザーサン》の銃口を押し当てる。ジョーは、額から流れる汗を拭うことも出来ず、瞬きした。
「久しぶり?昨夜、貴様の薄汚い顔を見たばっかりだぜ」
「昨日の事は遠い昔というんだ。オレにとってはな」
グラッド・アイは、尖った犬歯を歯茎まで剥いた。
衛兵の引導で、枢機卿ジョナサン・フュリエリ聖務省長官が現れた。
そうして簡素な棺が運ばれる。生前から質素を殊に重んじた、キアラモンティ大司教の遺志を尊重しているとの事だ。
ミスティ・サファイアは訝った。ジョナサン・フュリエリ枢機卿の顔色が、優れない。先日の予行演習の時から具合が悪いと見受けられたが、褐色の肌に些か脂汗が滲んでいる。大役ゆえの緊張などではない。経験豊かなこの聖人が、今更緊張する筈もない。
心穏やかでないとすれば、それは只一つ。教皇シクトゥス13世の身を案ずるあまりのこと。
「そうではない。フュリエリ枢機卿は本当にお具合が悪いのだわ」
ミスティは感じた。
かなりの高熱を堪えているように見えた。
元来、丈夫な方ではないと聞く。然らば、この大事に病気などすまい、と事前に身を安らかにして置く筈。それが不調を訴えるようならば、誰かの差金である可能性は有り得る。
ミスティは、専ら瞳だけを動かして周囲に注意を払った。
「いったい、誰?誰が枢機卿を」
視線の先に、深い緑の瞳が当たった。マキシム・デ・リガールは、何か物言いたげにゆっくりと瞬きをして、ミスティの瞳を見遣った。
棺は祭壇に近付いた。
オベリスクの上の鳩が静かに飛び立つ。誰も空に注意を払う者はいない。ミスティは、僅かに指をずらしながら、インバネスの下のガンベルトに手を掛けた。
広場は、そう。一般弔問者が後方に控えており、回廊の半分以上が人の頭に埋もれている。
その人垣の間を、襤褸を纏った二人の人間が動いたように、見えた。ミスティ・サファイアは、素早く列から後退した。両脇にいた執行官は、何食わぬ顔でミスティ一人分の空間を埋める。総てが段取り良く訓練された者達だ。既に、SPは静かに動いていた。
襤褸を纏った男達は、広場の後方で黒ずくめのSP二人に咎められていた。
男達の顔が明らかにされる。
ミスティは愕然とした。いつもの老人ではない。浅黒い肌のイスラム系住民だ。ローマの貧民街に塒を持っている連中の仲間で、日雇いの仕事、それも大っぴらに出来ないような類の仕事を請け負う男達だ。
「しまった」
と、ミスティは男達が何やら喚いているのも聞かず、引き返す。SP達は、男達が握っていた汚い袋を引き千切った。
パン屑が零れ、イル・クッポローネに止まっていた鳩達が一斉に向かって来た。
羽ばたきの音と白黒の塊の来襲が、人々の頭上を掠め、折りしもほんの瞬間的に、棺を運ぶ聖職者の足取りが止まったかに見えた。
ざわめく人々の間を縫って、別の襤褸を纏った影が走る。それは、到底普段鳩に餌を撒いているだけの老人の足ではない。充分過ぎるほどに訓練された傭兵の走りだった。
影は九つ。
ミスティは、過たず緋色の絨毯を横切った。まずは、一般弔問者の人垣が崩れた中を、太陽が沈む方角へ向かって一人の男が走る。民間人の中に入れば発砲出来ない、という決まり切ったセオリーに基づいて。
そして、逃げ込んだ側はお構い無しだ。男は、コートを脱ぎ捨て、ブラスターを発射した。人々の悲鳴が上がる。
《パイソン・シスタームーン》は、人垣にあっても容赦無く発砲した。
男の表情が、そんなバカな、という驚愕に変わる。ミスティ・サファイアの特命は、市民の保護にはない。それは、一般警備の者の任務であって、女巡検使に与えられた任務は飽く迄、教皇の御命を守ることのみ。
男の身体は、石畳に突っ伏した。骨を砕いた357マグナム弾が穿った穴からは、どくどくと鮮血が溢れ、美しい広場を汚した。返す左腕を振るうと同時に、前方の男が倒れる。これで三発目だ。
最早、広場は先刻の整然とした儀式の様相を呈しておらず、市民、聖職者入り乱れて混乱の極みに陥っていた。
「どういうことだね、フュリエリ枢機卿!」
アルフレード・ティレリ教皇代理枢機卿の大声が、響く。助祭に抱えられたフュリエリ枢機卿は、よろめきながら緋色の絨毯を行く。だが、フュリエリ枢機卿自身は何の指示も与えないまでも、SPは動いていた。衛兵もシミュレーション通りに、いやそれ以上に素早い対応を見せている。
「最悪の事態、いやこんな事があってたまるものか!血塗られた葬儀など!」
ティレリ枢機卿の声は上擦った。その剃刀のような瞳を、フュリエリ枢機卿は見上げた。
「最悪の事態は想定していました」
褐色の肌に浮かんだ汗が、目尻に流れ込む。
「教皇が参列なさるという事が決定した時点で。だが、最終的に判断なさったのは教皇。そして、お止めしなかったのは貴方ですよ、ティレリ教皇代理枢機卿・・・」
そう言って、フュリエリ枢機卿は激しく咳き込んだ。救急隊が酸素吸入器を抱えて、フュリエリ枢機卿の元へ駆け付けた。
「口数が多すぎるぞ、卿は」
アルフレード・ティレリ枢機卿は小さく呟いた。その冷然とした顔を、助祭は見上げた。だが、助祭はフュリエリ枢機卿が担架に乗せられた為に、その真意まで読み取ることが出来なかった。
この騒然たる儀式。総てが計算し尽くされた芝居だとしても、これほど上手くはいかないだろう。
ミスティは、インバネスを脱ぎ捨てて走った。既にテロリストの半分は、SPに仕留められていた。騒ぎが始まってまだ一分と経たない。聖職者らが右往左往する中を、ミスティは教皇の姿だけを目で追っていた。
何故に、わざわざこのような手の込んだ、しかもやりにくいシナリオでもって、テロ活動を行う必要があるのか。爆弾の一つでも仕掛ければ、教皇の命ばかりか、グルッポ・カルディナーレ諸共一掃出来るというのに。
何故だ。今は、このような疑問に頭を満たされている場合ではないのだが。
思い至れば、話は簡単だ。
そうだ。
「明らかにこのテロリズムの首謀者は、この舞台の真ん中にいる。舞台に出て来ざるを得ない人物であるのだ。爆弾なぞ用いたら、自分も危ういということか!」
ミスティは、唇を噛んだ。改めて、自分の愚行が忌まわしい。異端審問所に突き付けられた挑戦状の意味。
アーチレリー・ブールヴァルドに取り縋ってでも、真意を確かめておくのだった。女のプライドなど、この際どうでもいい。
「おじさま!」
ミスティは右肘を掴まれ、すんでのところで伯父貴に向けて、《パイソン・シスタームーン》のトリガーを引くところだった。
「教皇は聖堂の中へお入りになった」
サフィール枢機卿は、鬼気迫る表情で愛しい姪の顔を見詰めた。
「お前も・・・」
枢機卿は絶句した。ミスティの肘を掴んだ手から、不意に力が抜ける。ゆらり、と前に倒れ掛けたサフィール枢機卿の唇から、どす黒い血が溢れ出した。
枢機卿は振り返る。背後に若い男が立っていた。長白衣を着た司祭の格好の男は、口許に皮肉な笑みを浮かべた。見たことの無い、誰も知らない聖職者。そして、その明るい髪の色や肌の色は、決してローマ市民でもラテン民族でもないことを明確にしていた。
「おじさまぁ!しっかりなさって!」
ミスティは伯父の身体を抱き止めると、男に向かって《パイソン・シスタームーン》を放った。
男は、357マグナム弾を撃ち込まれながら、二三度ダンスでも踊るように身体を震わせた。
「へへ・・・へへへ」
頭を振りながら、男は仰向けに倒れた。胸の中心と脳天を撃たれて、夥しい血と脳漿を吐き出しながら。ナイフが男の右手から転がり落ちる。べっとりと付いた血は、サフィール枢機卿のものだ。
ミスティは、我を忘れる程、トリガーをきつく引き絞っており、男の手首をブーツの底で踏み躙っていた。
その左腕を、誰かが切り裂く。
思わぬ油断に、《パイソン・シスタームーン》が転がり落ちた。弾丸は一発も装填されていない。
振り返ったミスティは、テロリストの顔を見た。男は両手にかざした短剣を光らせ、舌なめずりした。
《デアデヴィルXIX》の排気音が、静まった。後方に繋がれた《イケヅキCR−X》は、横転している。この調子だと、部品の一つや二つは吹っ飛んでいるかも知れない。
ジープは既に道端に投げ出されていて、ジンは木々の間から漸く這い出して来るところだった。
「くそ乱暴な連中だな」
丁度辺りは道が開けた三叉路で、泥濘だらけではあったが、見通しは良い。
およそ十五フィートの間隔でもって、スロッピー・ジョーとグラッド・アイは見詰め合っていた。
「ちくしょう。出るに出られねえ」
容易に動いたら、いつグラッド・アイのククリだか何だかが飛んでくるか知れないので、ジンは蔦の間から首だけを出して様子を見守っていた。大分離れて、その真向かいにアーチとピーチィの乗った《デアデヴィルXIX》。
ここは、どうがこうでもジョーに勝って貰わねばならない。でないと、グラッド・アイがジープで移動中に言ったおぞましい行為が現実のものとなる。
「最悪じゃねえか。ジョーが倒れたら、グラッド・アイはアーチを切り刻む算段だ。傭兵どもは全員倒れて動けねえ。となると、あいつのオカマを掘るのはやっぱ、オレの役目じゃねえかよ。くっそう」
ジンは、我が事のように手に汗を握った。一世一代の賭けのような気分だ。
風がそよいで来た。
ジョーは、僧服を脱ぎ捨てた。無言で《パイソン・ブラザーサン》をベルトに挿み込む。そして、同じようにルガーPPKを背中側に差し込み、両手を挙げた。ゆっくりと一回転して見せる。
グラッド・アイは、これもコートを脱いだ。それから両手のククリを二丁拳銃のごときスタイルで、腰の両側に差す。
両者はこの時点で両手に武器を手にしていない。まるで、ジャッジのような神妙な顔付きのアーチを、ジンは見遣った。
アーチは、僅かにオリーヴグリーンの瞳を泳がせて、ジンを見る。
「おっと、そこの色男。弾を総て抜け」
グラッド・アイは突然に指示を出した。アーチは、一瞬トボケて見せたが、冗談もあったもんじゃない、と判ると素直に従った。わざとらしいくらいに《キングコブラ》を突き出し、スイング・アウトさせて357マグナム弾を掌に落とす。グラッド・アイは背後を警戒しながら、アーチに近寄った。掌からもぎ取るようにして、六個の弾丸を奪う。
と、同時にグラッド・アイの左手がアーチの脇腹を抉るようにして擦った。鳶色の眼が、舐めるようにして白皙を見詰めた。
「どうだい?傷は痛むかい」
アーチは、眉を顰める。
「心配ご無用、ゴム用品ってトコだ。生憎、おたくのような人間を千人縊り殺したところで、傷どころかオレの心は痛まないね」
グラッド・アイの指に力が篭った。ピーチィは、声を殺して息を呑む。
「いい度胸してやがる。お前を先に切り刻んでやろうと思ったが、ジョーを始末してからでもいいだろう。その口で悪口雑言垂れながら、血飛沫上げて最期のタンゴでも躍るといい」
意味深な言葉を投げ掛け、グラッド・アイは手を離した。
アーチは、白衣を脱ぎ、ベレッタ・モデル21Aも一緒に林の中へ投げ捨てた。丸腰だということをパフォーマンスする為だ。
「離れな、お嬢ちゃん」
グラッド・アイの声に、ピーチィはびくん、と肩を動かした。
「幾らいい男か知らないが、場面を弁えるのが淑女ってもんだ」
グラッド・アイは、冗談ではなく恫喝した。
とはいえ、今アーチから離れたら、自分が《ブラックホーク》を持っていることがバレてしまう。それは余りにも拙い。ピーチィは、目を潤ませて、アーチに訴える。
「どうしたらええのん?」
「とにかく、離れろ。銃は離すな。背中に入れとけ」
「せ、背中ぁ?」
ピーチィはアーチの言う通りにして、両手を上げ、半泣きの顔で《デアデヴィルXIX》を離れた。
こうしている間、ジョーはダンヒルのフィルターを噛み破ってしまう程、考えを巡らせていた。口腔に苦いニコチンの味が染み渡る。
一般的に考えたなら、銃と刃物の対決は無理がある。
刃物は幾ら長くても、十フィートが精一杯だ。それも投擲出来得る獲物でなくてはならない。そうなると、機動力に問題がある。生身の人間では、パウダーガンのような飛び道具に敵うわけがない。どうしてもショートレンジの戦いでしかないのだ。
だが、敢えてその垣根を破ってくるのなら、グラッド・アイにはそれなりの自信があり、また対決せねばならない何かが両者に横たわっている。
とはいうものの、グラッド・アイは何れにしても目算を誤っている、とジンは思った。観衆は二人では無い。しかも、一人ははフォーティファイドだ。幾らパウダーガンを取り上げたところで、幾ら刃物の名人だといって、生体サイボーグともいうべき強化人間に敵う者はいまい。
だが、手出しは無用だ。因縁の対決に第三者の出る幕は無い。
ジョーは、短くなり過ぎたダンヒルを吐き捨てた。
それがゴングの代わりだった。
ジョーがベルトから《パイソン》を抜いた瞬間、グラッド・アイは素手で突進を掛けた。ジョーに肉薄したその時、ベルトのククリを抜き、素早く刃を交差させる。
すんでのところで、ジョーの腹筋は切り刻まれるところだった。ジョーは自分から仰け反り、背中を強か地面に打ちつけながら、《パイソン》のトリガーを引いた。
グラッド・アイはクロスさせた腕を突き出し、357マグナム弾を回避するでなく、受け止めた。
「ぐ、がっ」
咄嗟の事とはいえ、恐るべき勘の良さだ。フラット・ノーズに削られた弾丸は、ククリの刃に垂直に命中した。跳弾は、ジョーの耳朶を掠った。弾は短く跳ね返って、泥水に落ちる。ラウンド・ノーズだったなら、運悪く顔面に当たっていたかも知れない。
ジョーは自分で自分の命を拾った。
ジョーは、自分の上に馬乗りになったグラッド・アイに力負けしつつある。喉元には、ククリの鋭利な刃が迫り、そのV字谷に嵌れば、間違いなく死が訪れる。それも、考える暇すら与えられず。
「くぉのっつ!」
ジョーは地面を蹴り上げた。自分の一・五倍はありそうなグラッド・アイを押し退けるのは容易では無かった。むしろ、グラッド・アイの方から退いたと見える動きだった。
《パイソン・ブラザーサン》の反撃は、グラッド・アイの右肩を貫いた。
一瞬だが、巨体が揺らめく。ジョーは、喉元を拭った。薄く削がれた皮膚が、ぺろりと垂れ下がった。そこから血が滲み出している。跳ね起きるあの瞬間、ククリの刃が滑った時にやられたのだ。一秒の油断も許されない。
まさか、銃と刃物の戦いが、これほどまでに緊張感を高めるものだとは、誰も思うまい。しかも、パウダーガンと曲刀。ガンブレードでもない刃物。相手が、距離を必要とする、しかもリスクを背負うパウダーガンだからであるからかも知れない。ブラスターなら、端から勝負にもならない。
グラッド・アイは身を楯にしても、ジョーに向かった。虎の子のククリを投げる訳にはいかないのだ。ジョーは止むを得ず、ハンマーを落とす。
そして、チャンスは《パイソン》が総ての弾丸をはじき出してしまった瞬間、或いはルガーPPKに握り替えるまでの時間に訪れる。
ジョーは間合いを取った。グラッド・アイがククリを構えて走り出す瞬間に、ファニングで弾丸を真正面に放つ。伊達に曲撃ちを始めた訳ではない。
弾は二発。これで、六発使い果たした。ジョーはトリガープルを終えるや否や、《パイソン・ブラザーサン》を投げ出し、腰に右手を滑らせた。ルガーPPKを抜いた瞬間、グラッド・アイの顔が目の前に飛び込んで来た。
ジョーは指を硬直させたまま、グラッド・アイの火を噴きそうな熱い吐息を喉元に感じた。
互いが息も吐かないで、視線をがっぷり四つに絡み合わせる。
最初に息を詰まらせたのは、ジョーの方だった。
「ぐ、ぷぷ・・・」
唇の端から血が流れた。口中を切ったのも相俟っているが、それはククリの刃が肺の一部を傷付けたからに他ならない。
ククリの刃は、半ば以上ジョーの上腹部に埋まっているかに見えた。それも、斜めに向かって。漸くグラッド・アイが刃を抜いた時、ピーチィは思わず顔を背けた。
ジョーは反動で些かふらついたが、立ったまま堪えることが出来た。痛みよりも何よりも、刃の味は吐き気を催す。だが、平常心は失わない。
ククリの刃先から滴る脂と血に、グラッド・アイは興奮を覚えた。
「いよいよだな・・・」
グラッド・アイの目が狂気に濡れる。
ジョーは血塊を泥濘の中に吐き出した。ルガーPPKの銃口からは硝煙が上がっている。無論、スロッピー・ジョーは狙いを外したりはしない。
アイルランド人の右肘は、解れた繊維から血に塗れた皮膚を剥き出しにしていた。ジョーの狙いは何なのだ。ジンは首を捻った。
「そろそろ本気を出して貰おうじゃあないか。尤も、本命は使い果たしただろうがな」
グラッド・アイはどすの効いた声で笑った。捨てられた《パイソン》の行方を横目で追う。最早、ジョーには二十二口径のセミオートマチック銃しか残されていない。
ジョーは顎を伝う汗を拭いもしないで、グラッド・アイの瞳を見据えた。
「でやああああ!」
男の短剣が、叫びと共にミスティの左腕に突き立った。ミスティは、骨に食い入る激痛を堪えながら、伯父の身体を庇っていた。
男は薄ら笑いを浮かべる。そうして、懐から取り出した両刃のナイフで、ミスティの制服を切り刻む。美しいブルネットは、男が刃を振るい、ミスティがかわす度に、少しずつ毛先を削がれた。
気丈を通り越して激しい気性の女巡検使は、刺さった短剣を力任せに引き抜いた。
右腕で伯父の身体を担ぎ上げ、利き腕の左手のみで応戦する。
セノビオ・サウザとの手合わせ通りの動きだ。だが、条件は劣悪だった。男はずぶの素人ではない。ミスティが左高の防御の門を示すと、男は左下を狙い、逆はまた同じ。決して、右だけは攻められまいとする分、ミスティは不利の崖っぷちに追い遣られていた。
男はナイフをくるくると回転させ、ミスティの首筋まで飛び込んで来た。後ろへ退いた瞬間に刃は回転し、ミスティの左顎に薄っすらと刃が通る。
玉のように浮かび上がる血。ミスティは短剣を男の鎖骨に突き刺したまま、つい手を離してしまった。
「終わりだ」
呟いた男のトランスは、語尾が掻き消されていた。
「・・・・・・」
大きく見開かれた眼球が、今にも飛び出しそうな表情のまま、男は真正面から倒れた。
男の背後に立っていたのは、マキシム・デ・リガール。いやしくも《称号》保持者、《銃星》を持つ男の姿だった。リガールの右手に握られた《リトル・ドラグーン》の銃口は、ミスティを認めると、下ろされた。
こんな至近距離で。男に気取られぬように、リガールは近付いたのだ。並みのパウダーガン使いなら、やはり出来まい。
リガールは至って慎重な口調で言った。
「サフィール特務巡検使。貴女は一刻も早く、サフィール枢機卿を医局へ」
ミスティと伯父の二人を、医局の救急班が取り囲んだ。リガールは、笑みも漏らさずに《リトル・ドラグーン》を上着の下へ押し込む。本来なら、儀式上は教皇報道秘書官は武器の所持を許可されていない。何故、携帯を許されていたのだろう。身体検査は行われた筈なのに。
リガールの瞳が、ミスティの横顔を追う。ミスティは振り返る。
「心配召されるな。サフィール卿・・・伯父上は助かりますよ」
「何を根拠にそんな事が言えるの?」
ミスティは唇を震わせた。自分の両掌と腹部には、夥しい伯父の血液が染み込んでいた。
「貴女の伯父上は稀に見る強運の持ち主ですから」
「・・・・・・」
ミスティは口篭った。意味ありげな言葉の裏に、何かが隠されているのではないかと、訝った。だが、反駁しようにも二人の間には医師らが大勢居過ぎた。普通の話し声では届きはしない。リガールは、ほんの瞬間、悲哀とも読み取れる表情をミスティに見せた。
「何が強運だというの!」
ミスティは、医師らの成すがままに引っ張られて行く。自らも手当てを受けねばならない傷を負っている。視線は、広場に残ったが、やがてリガールの姿が消えると、何も残らなくなった。
勝負は一瞬で決まる。だが、既に互いが見詰め合った時から決まっていたのかも知れない。
「来やがれ!」
「ぬうおあああ!」
グラッド・アイの絶叫が谺した。アイルランド人の分厚い体躯は、再びジョー・クリサンスマムの胸元に飛び込んだ。今度こそは絶対に心臓を外さない。そのつもりで刃を外側に向け、ほぼ垂直に突っ込んだ。
ずぶり、という鈍い音が重なり、二つの身体は組み合ったまま、動かない。
やがて、グラッド・アイが呟く。
「・・・どうだ、兄弟?刃の味は」
聞いてか聞かいでか、ジョーの肩がくつくつと震えた。いや、震えではなく、笑いだ。
「つまらねえ事を訊くなよ。お返しを味わえ」
ジョーは右手首をグラッド・アイの背中に向けた。何の躊躇いもなく、ジョーはルガーPPKのトリガーを引き絞った。
「ジョー!」
ジンは覚えず、声を上げた。既に、発砲は終わっていた。硝煙を棚引かせるグラッド・アイの背中から、銃口が離れた。と、同時にグラッド・アイとジョー・クリサンスマムの身体はその場に屑折れる。
「アホンダラが・・・!」
アーチは、口中に溜まった唾を吐き捨てた。ルガーPPKに入っていたのは、紛れもなくラウンド・ノーズの弾丸だ。敵を抱いたまま、自分に向けて貫通弾を撃つなど、愚の骨頂。
泥濘に、空の弾倉がぽしゃり、と落ちた。
グラッド・アイの身体がずるずると、滑り落ちた。同時にジョー・クリサンスマムの膝ががくん、と折れる。ジョーは下腹にククリを二本突き立てたまま、仰向けに倒れた。
「いやああ」
ピーチィが叫ぶ。叫ぶ少女の肩を押して、アーチは両者に駆け寄った。グラッド・アイは背中を、丁度心臓の裏側を撃ち抜かれていた。
そして、ジョーはグラッド・アイを貫いた弾丸を鳩尾に受け止めている。男達の傷からは、やがて血が流れ出した。
不意に手が動いた。それはどちらが先だったのかは判らないが、グラッド・アイの右手は刃物を求めて空を掴み、ジョーは自分の腹に突き立った凶器を抜かんとしていた。
「うう・・・」
ジョーは両手を添えて引き抜こうとしたが、力が入らず、血糊で滑った。無駄と判ると、投げ出したルガーPPKに右手を伸ばす。その動きをグラッド・アイが追った。這い蹲りながら、アイルランド人はジョーの足首を掴んだ。
手出し出来ないと判ったアーチは、再び後退する。
ジョーの右手指が、オートマチック拳銃に届いた。瞬間、グラッド・アイは最期の力を振り絞る羆のように、重い身体を弾ませた。
飛び上がるグラッド・アイの身体。ジョーはルガーPPKを手離した。
そして、自由な左脚で泥濘を蹴った。そこから飛び出したのは《パイソン・ブラザーサン》。残弾を使い果たして、役目を終えた筈のリヴォルヴァーを、ジョーは上体を捻って掴み上げた。左手が《パイソン》を握る。と、殆ど同時に発砲。
ドギュアンンン。
たった一個の357弾が、両者の運命を分けた。
グラッド・アイは喉仏を撃ち抜かれた。数十センチという至近距離でリヴォルヴァーの弾丸を食らい、グラッド・アイの体は硬直したまま仰け反った。口腔から溢れる赤黒い血が、ジョーの額に飛び散った。
これで、ジ・エンドだ。
藪の中から、傭兵が飛び出して来た。さしものジョーも、次の手は考えていない。
「なっ、何すんの!?」
アーチは、ピーチィの身体を掴むと、ジンに向かって軽々放り投げる。
「おう!」
ジンは低い姿勢から飛び出した。少女の身体を受け止め、ジンは剥き出しになった背中から《ブラックホーク・ディオファイア》を素早く抜き放った。
重低音に遅れて、傭兵の身体が沈んだ。見事ファスト・ドロウの真骨頂である。しかも、いかに軽いとはいえ、ピーチィの身体を背負いながら。
「・・・オレの出番はこれだけかい」
とほほ、とジンは泥塗れになったシャツの前を払いながら、悶絶した傭兵の身体を転がした。とはいえ、一安心だ。
ジョー・クリサンスマムは、汗で目が霞むのを感じていた。いや、自分の汗とグラッド・アイの返り血にだ。もしかすると、失血のあまり意識を失いかけているのだろう。どうでもいい。これで、スロッピー・ジョーの面目は立つ。
ジャスミンの事が脳裏を過ぎる。死神に纏わり付かれた女の顔ではなく、あの詞を口ずさんだ時の横顔。
『骸は語る術を知らず。されど、骸に代わって月は語らず。月は嘆く術を知らず。されど、月に代わって陽は嘆かず』
「・・・あんたの忠告通り・・・二度と起き上がれないようにしたぜ」
ジョーは苦しい息の下で言った。真上に、アーチの沈着な面があった。アーチは、ジョーの脈を取り、灰色の髪に掛かった血を拭う。ジュラルミンケースから取り出した滅菌済みの手術道具が、現れた。まるで野戦病院の趣で、アーチはジョーを広げたシートの上に横たえる。
「あんたほどの腕なら、勝負が始まった瞬間に、ヤツの喉を撃ち抜けた筈なのに」
アーチは、注射器の針を麻酔剤のカンフルに沈めながら、静かに言った。
「・・・心残りがあるだろうよ、ヤツも。オレに、一度でも刃を突き立てれば、本望だった・・・と」
「あんまり喋るな」
ジョーはその応えに、微笑を浮かべた。
「カッコ良く死なせてくれ、よ」
そう言って、ジョーは瞼を閉じた。
終章 SLOPPY JOE 汚れた英雄
ローマ市内の朝は、例によって早い。夜明け前から鐘の音がリンゴン、と響き、いつものように午前七時には鳩の群れがサン・ピエトロ広場に集まる。
一昨昨日の惨劇は跡形も無く、広場に流れた無数の夥しい血溜りは、その日のうちに消え去っていた。
思い返すもぞっとする、出来事だった。ヴァティカン執政が始まって以来の大事件。
今日はまた、一段と晴れ渡った空である。ヴェッキオ・チンザーノ異端審問官は、二階の窓から遠く東の空を見遣った。
異端審問所の執務室が、地上に現れて数十年。
無論チンザーノは、この施設がローマ市内に三十五箇所あるというカタコンベ(地下墳墓)の一つにカムフラージュされていた歴史は知っている。だが、数世紀前の冷たい空気と、現在陽の目を見た異端審問所の存在とが如何に似て非なるものか、知る由もない。
殺しと略奪の言い訳を造る裁判に熱中していた権力者に諂う、異端審問官。正義とは如何なるものなのだろう。それは、普遍のものでも、人類共通のものでもない。
ヴァティカンにとっての正義と、民間レヴェルの正義は意味合いが異なる。異端審問官にとっての正義と、私的な正義とも然り。幾つもの正義を使い分けることなど、無意味かつ不可能だ、とチンザーノは日頃思う。
チンザーノは熱いカッフェを飲み干すと、書類を携えて、所長室のドアをノックした。
コンコンコン。ノックに応えて、耳に馴染まない声が返ってくる。
「お入りなさい。チンザーノ司祭」
応答も違う。いつもなら、「ヴェッキオ」か、「チンザーノ異端審問官」だ。
所長室の椅子には、太り肉の頬の垂れた聖職者が鎮座していた。紫檀のデスクの前には、立体映像を映し出す最新鋭のパソコンが置かれている。訪問者側に向かって、ディスプレイが表示される。
「恐れ入ります。ディベルニーニ所長代理」
チンザーノは恭しく言った。
そして、ディベルニーニのむっつりした顔を真正面から見た。チンザーノは自分の方から切り出す。
「案件ナンバーE01816の件についての処分ですが・・・」
「認識ナンバー072ジョー・クリサンスマム異端審問官のことかね?」
ディベルニーニは、二重顎を自分の手で撫でた。
既に、昨日異端審問所には、ジョー・クリサンスマムの名でテロリスト集団BBWの殲滅が報告されていた。初めに受け取った人物が、本来の所長であるグレナデン・サフィール枢機卿であるならば、即、訝っただろう。
普段のジョー・クリサンスマムの報告にしては、緻密過ぎた。証拠として首領格グラッド・アイことイアン・マッカルパインの武器を押収、遺体の回収を現地巡検使に依頼、負傷傭兵の身柄を確保。更に、コリア村での大量虐殺の痕跡を記録したディスクまでもが、速やかに送られて来た。
チンザーノは首を傾げた。言っては悪いが、ジョーがここまでまともで迅速な報告をした記憶など、チンザーノの知る限りでは有り得ない。普段は、
「しまった。余計な連中まで殺っちまったな。始末書二つも書かにゃあならん」
という、大雑把な仕事ぶりなのだ。サフィール枢機卿こと異端審問所所長のお小言を頂かないことは、稀だ。
実は《スロッピー・ジョー》の異名の本当の由来は、そこにあった。異端審問官の業務記録には、いつからか始末書の記入欄がある。大抵の異端審問官は、年に二、三も印が付いていれば多いほうだ。だが、ジョーの場合は任務の度に始末書、しかも複数のこともある。業務記録がびっしり黒いもんだから、それが事務官の間で、《汚れたジョー》と呼ばれたのが、そもそもの始まりであった。
チンザーノは頭を振った。それとも、積年の蟠りが解決して、ジョーの精神に何か変化があったとでもいうのか。でなければ、誰か第三者がジョーの名を使って、虚偽の報告をしたものか。
チンザーノは慌てて、近隣の派遣員にメールを打ち、確認に行かせたものだ。
果たして、結果は事実だった。
そして、もしやジョー自身が報告出来ないのは、最悪の事態が起こったからではないのかとさえ思った。
「根本的な疑問だが、ジョー・クリサンスマムは生きているのかね?」
ディベルニーニは、薄い眉を顰めた。
「報告は本人名義です。サインも」
チンザーノはきっぱりと言った。ディベルニーニは、うーん、と唸って落ちそうな頬に手を当てた。
「代理の人間が報告を上げることはあるが、事件が解決して一日しか経っていない。クリサンスマム本人が瀕死の重傷を負っているとしたら、口述でも第三者にここまで正確な記述が出来るだろうか?」
「尤もです。ジョー・クリサンスマムに同行者がいたと考えるのが適当でしょう。ですが、現地巡検使はこの事実を知っていませんし、派遣員も同じです」
「外部の協力者がいたという事か」
ディベルニーニは納得しないまでも、軽く頷いた。
「で、処遇は規則通りで構わないでしょうか?」
チンザーノは、笑みを湛えた表情で訊いた。
異端審問官が任務遂行中、余人を不慮、或いは任務完了に不可欠の理由で殺害した場合に適応される規則。
『十五日間の断食と祈祷書暗誦を行い、斎戒に勤めなければならない』
無論、断食といっても朝夕に水とパン一欠けらを摂取することは許されている。そして、それは異端審問官が任務終了後ヴァティカンに帰還してからの執行である。
ディベルニーニは無言で、チンザーノの差し出した始末書にサインを書いた。
「クリサンスマム異端審問官の無事を確認したら、速やかに帰還命令を出すように」
「了解しました」
チンザーノは慇懃に頭を下げ、所長室を出た。
廊下に佇んでいた人物に、チンザーノは会釈をする。背の高い女は、いつものように厳しい制服を身に着けて窓辺に凭れていたが、表情は柔和だった。というよりも、疲労の色が濃い。左腕を三角巾が覆っている。
ミスティ・サファイアはチンザーノの顔色を見て、赤い唇を弛めた。
「お忙しい様子ですわね」
「急な仕事が舞込んで来ましたからね」
チンザーノは言った。ミスティは頷く。
昨昼、麻酔から目覚めたサフィール枢機卿が、チンザーノを枕元に呼び寄せて言った言葉。
『傭兵達が握っていた現金を洗い出すように。首領格は、まず生きてはいまい。それと、フュリエリの常備薬をすり替えた人間を捜し出す。時間が掛かるだろう。だが、雇い主は決して足のつく電子マネーは使っていない。何ヶ月、何名動員しても構わん』
恰も、サフィール枢機卿は怒りを鎮めて言った。
狙い通りに、異端審問所は打撃を受けることとなった。もしかすると、枢機卿自身は真の首謀者に気付いているのかも知れない。それは、チンザーノには判断しかねた。だが、信頼を置かれている以上やらねばならない。
「所長の具合は?」
「御蔭様で・・・今朝は早速、ベッドの上で仕事の指示を出していましたわ」
ミスティは、長いブルネットを振るった。早朝にしてはアンニュイな横顔が、笑みを作る。チンザーノは、満面の笑みをミスティに向ける。
「貴女こそ、ご無事で何よりです」
「悪運の強いところは、伯父貴に似たのかしらね」
と、ミスティは自嘲を込めて言う。
礼を言うなら、マキシム・デ・リガールに言うべきところだ。だが、本人とはサン・ピエトロ広場で別れたきり、一度も顔を合わせていない。今回のテロ事件終了後、最も繁忙の渦中に投入されたのは、アルフレード・ティレリ教皇代理枢機卿、そしてカッサンドラ・ブルーネレスキ医局長をはじめとする医局員と、教皇報道秘書官達だった。事件後半日も経たないうちから、ユーロ各都市のマスメディア、上層都市の報道陣がローマ市内に押し寄せて来た。
割りを食ったのは、グルッポ・カルディナーレと負傷した聖職者ばかりで、ローマの商売人と新聞屋はウハウハだろう。
教皇は一時心労で臥せったものの無事、テロリスト以外に死者が出なかったのは不幸中の幸いといえる。
そして現在、事実上、ヴァティカンの首都機能は停止状態である。枢機卿二名は急病と重傷に倒れ、教皇代理枢機卿はマスメディアの応対に忙殺され、グルッポ・カルディナーレという頭部を麻痺させられた聖庁でまともに機能している部署は数える程だ。
こういう時にこそ、各教区の独立執権制が物を言わねばならないのだが、実際のところは中央から出張った執行官と名ばかりの司教で、何が出来るというのだ。
思わぬところで足元の弱さを露呈した聖庁は、今後の改革を強制されることだろう。
尤も、一異端審問官に過ぎないチンザーノには、直接関わりのないことではあったが。
チンザーノは、ディベルニーニ所長代理のサインが入った始末書をひらひらさせた。
「まったく、人騒がせな男です」
「クリサンスマム異端審問官の事ですの?」
チンザーノは頷いた。
《汚れたジョー》。スロッピー・ジョー。
「誰に命を救われたのか知らないが、あの男も相当に悪運が強いと見えますね。一度手合わせしては如何ですか?」
「そうね。面白いかも知れない。どちらの悪運が勝っているかしら」
ミスティは苦笑した。
チンザーノは、女巡検使に別れを告げると、異端審問所の建物を後にした。
窓から覗く青空に、鳩が舞う。建物の入り口に掲げられた看板に、幾人が注意を払うだろうか。
「Quem di diligunt juvenis moritur.《神々が愛するものは、若くして死ぬ》」
<DISMISSED!>・・・CONTINUED ON NEXT DUEL